【本気で】チェンソーマンを読んで人生の幸せ考えてみた

第一部 公安編について様々な考察がされているチェンソーマン。アニメは終わってしまいましたが、原作では第二部も始まり、舞台、展示会など催され、ますます盛り上がりを見せていますね。
 
 
 
ストーリーが秀逸でその考察に目が行きがちですが、キャラクターたちのセリフを噛みしめるとこのマンガの奥深さがわかります。奥深さの一つとして、言葉は適切ではないかもしれませんが読んでいて「焦った」ところがありましたのでその気付きを共有します。
 
おそらく、この記事を読んでもらえばあなたも焦ると思います。人生の幸せとはなんだろうと考える内容になっています。よろしくお願いします。
 
第一部のネタバレ(おまけ部分で第二部も)を含みますので原作を未読の方は注意してください。そもそもチェンソーマンってなに?という方やアニメも見たことない方向けに書いてはいないので、原作かせめてアニメのどちらかは見た上で読んで頂けると幸いです。
 
 
 

初めに

さて内容ですが…メインキャラであるデンジとアキ。彼らの職業への向き合い方について引っかかるものがありました。
 
キーワードはです。
 
 
 
本題に入る前に少しだけ前座。
 
デンジが配属になった公安対魔特異4課はマキマが組織しています。
 
そして、マキマは無茶な仕事を部下に投げまくります。業務時間内だけでなく、プライベートにも仕事を侵食させます。

 
 
 

プライベートがなくなり、自分一人の時間がなくなる
 

極限の選択を迫り正常な思考を奪う
 
 
 
本筋とは少しそれますが、わたしはこの構図が、ブラック企業とその雇用者に思えて仕方ないのです。そう思って読み返すと、なんとも違うマンガに感じられると思います。
 
わたしには「ブラック企業に何も考えず入社した男が、理不尽してきた上司をぶん殴る」という話にみえました。この記事を書くうえでわたしはこんな考え方をする変わった人間だと知ってもらった上で考察へと進んでいきましょう。
 
 
 

大事なキーワード

 
さて、何度か登場しますが
 
「なんで十分恵まれてるのにもっといい生活を望んだ?」
 
このセリフを根底にして、わたしの考察は進みます。
 
 
 
 

欲望に溺れた者は心まで悪魔になる
 
 
 
デンジはポチタがいれば幸せだった。しかし、人間はみんないい生活を夢みてしまう。よりいい朝ごはん。よりいい部屋…。はたして何があれば人は幸せなんでしょうか?
 
 
 
 
 
 

欲求について

マズローの欲求五段階説によれば一番上位の欲求が自己実現欲求となります。
 
 
 
 自己実現理論(じこじつげんりろん、英: Maslow's hierarchy of needs)とは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。自己実現論、(マズローの)欲求段階説、欲求5段階説、など、別の異なる呼称がある。

マズローの欲求五段階説
 
これに従えば公安では多くの人間がそこを目指して働いているということになります。しかし反対にデンジは一番下の階層、「生理的欲求」のより大きな充足を目指します。
 
 
 
働く人たちが一番気になる、給料、福利厚生や有休に着目してみると、どうやらデンジたちの働く公安はこのマンガの世界では相当恵まれているようです。給料もよいということも書いてありますので、ここで働く人たちは尊厳欲求や社会的欲求がみたされているだろうことが分かります。
お金もあるし、暮らしぶりや住居も広い。3人で毎日パーティーみたいなごはん食べていますからね…。
つまり、低次元の欲求は満たされている訳です。
そして、社会的に評判のいい組織で働いている、という自覚。マキマが言っている通り、働いて(生きて)いたらいい給料が貰え、社会的な地位も高く、やりがいのある職場なのでしょう。
こういったことからある程度高次元の欲求(社会的欲求、尊厳欲求など)は満たされており、自己実現を追い求め、公安で働いていると考えられます。
 
 

マキマは公安はいいところだと洗脳する
 
 

自己実現・自分の欲求は何か

自己実現欲求とは、具体的に言うと銃の悪魔の討伐です。これは多くの公安職員が目指していることだと作中では描かれます。
最後には、それも仕組まれたことだという絶望が待ち受けていますがね…。
 
マキマは常にデンジを洗脳しようとします。公安はいいところだ、デンジくんはそのままでいい、と。
安心させ、よい立場でいると思わせることでデンジに「今の職を失いたくない」と思わせようとします。
 
しかしデンジはそれに流されません。上のコマでもそれがわかります。周りからどう思われるとか、みんなが「いいな」と思うものにデンジは興味がありません。なぜならそんな高次の次元で生きていないのです。そんな様子が馬鹿のように描かれますが、多くの現代人とは違って、そんなふわっとしたものではなく、自分の欲求や心の声に向き合っていると言えるのではないでしょうか。
 
今したいことは?と訊かれてデンジのように〇〇がしたい!とあなたはすぐに答えられますか?またそれは他人の視線を気にしたモノや洗脳されたモノではないと本当に言い切れますか?
今一度、自分のことについて考えてみる必要があるのかもしれません。

 

 
 
 
多くの人が給料やいい仕事についたという満足感につられて働きたいと思う公安。しかし、その見返りに死と隣り合わせだとはみんな気づかない(気づこうとしない)わけです。
 
漫画だと極論ですが、現実でもゆっくりと自分の人生とお金を交換しているのはお気づきでしょうか。つまり働くとは人生を換金しているにすぎないのです。またまた脱線しました…。
 
上のコマでアキは自分の人生を生きろとデンジを殴ったわけです。公安にいても目先の欲求に流されているヤツは死ぬだけだから、人生を棒に振るな、と。厳しいですが優しいですね。アキの言う根っことは先程説明した自己実現欲求であるとわたしは思います。死んでもいいという覚悟で自己実現をしようとしているわけですね。

 

そして、とても印象的なシーン。
 
このコマでアキとデンジは対照的です。
 
 
普通の生活が手に入ったデンジ(生理的欲求の充足
銃の悪魔を倒したいアキ(自己実現欲求の不足
 
自分とは正反対のアキを前にすることで、より自分の人生の目標と現在の状況が明確になってます。
 
デンジはかつての目標だった普通の生活という目標を遂げました。彼は一つの目標を遂げると、次の目標、次の目標へと進んでいきます。自分の本当の欲求に向き合い、それが叶ったとして、次に何が幸福かを考える 真面目 な性格です。
 
 
 
その結果こうなるわけですが……。
 
 

 
 
ここからわかるのはデンジの欲求は高次元へ進まないということです。いつまでも生理的欲求の階層でまだ足りないと思うものを目標にします。そして、その欲求のおかげか、公安でも活躍しながら生き延びることができます。
 
 

欲求と目標の終わり

さて、ここまで順調なように思えますが、実は問題が生じています。
 
 
 
欲望は終わりのないものです。どんなに望んでいた生活であっても、人間はその生活に飽きてしまいます。これを限界効用逓減の法則といいます。
 
 
 
財の消費量が増えるにつれて、その財の限界効用が小さくなることを限界効用逓減の法則、または、ゴッセンの第1法則という。
 
例えば、喉が乾いた時の一口目の水は美味しいですが、二杯目、三杯目…と飲むと美味しさは減っていきますよね。
使えるお金が1000円より30万円の方が幸せを感じるかもしれません。これはデンジが作中で目標を叶えた状態です。
では100万、1000万、と増えても同じだけ幸せを感じれるでしょうか。飽きてしまうのではないでしょうか。
 
 
 
結果、パンにジャム塗って食べれたら幸せと言うほどの貧乏だったデンジですらそれに飽きてしまうわけです。
 
 

欲求には終わりがない
 
 
 
では、わたしたちは何を目標にして努力すればいいのでしょうか。
そして、どういうことに幸せを感じたらいいのでしょうか?
 
 
 
 
 

幸せとは何か ーデンジの答えー

 
次は一番わたしが好きなシーンです。人生の幸福というのは何か、デンジが答えてくれています。
 
 

胸をもむ話をしています
 
 
 
人間はみんないい生活を夢みてしまう。しかし実際にそのいい生活を手に入れたとしても、今より幸せになるとは限らないのです。
 
 
 
ストーリー後半、銃の悪魔の討伐作戦のとき、アキはそのことに気付きます。自分の追いかけてきた夢は今あるものを捨ててまで欲しいものなのか?と天秤にかけたのです。「自分の死」と「銃の悪魔を倒す夢」を比べて、かつては後者を優先したアキでしたが
 
「パワー、デンジとの生活」と「銃の悪魔を倒す夢」を比べて前者を優先するようになります。前者の重みに気づいたのです。
 
 
 
 
 
これはデンジのいう通り、夢は「追いかけてた頃の方が幸せ」だという考えに至ったんじゃないでしょうか。
 
 

今の生活を失う恐怖で正常な判断はできなくなる
 
 
 
 
 
アキは消極的な一方、デンジは銃の悪魔討伐に乗り気です。マキマに洗脳され、討伐が自分の幸せ(=生理的欲求の充足)と思い込んでいるためです。

 

まとめ

さぁそろそろまとめていきましょう。チェンソーマンでは田舎のネズミと都会のネズミの話が登場します。
 
 

デンジはポチタとほそぼそと暮らしていましたが公安で働くことになりました。つまり田舎のネズミでしたが都会のネズミになったということです。終盤で都会のネズミとしての生活は全て仕組まれたもであったと知り、その暮らしの中で失ったものに罪悪感を抱きます。対してアキは都会のネズミでしたが、みんなと平和に生活をする田舎のネズミになりたいと思うようになりました。
 
田舎のネズミというのは、「貧しいけども夢を追いかけている"だけ"の状態」とも表現できるでしょう。チェンソーマンにおいて、ほとんどのキャラクターが田舎のネズミへの憧れを語ります。現在の生活は完璧ではないが、悪くはない。都会で暮らしてみたいと言うけど波風の少ない田舎も嫌いじゃない。
 
デンジも田舎のネズミになろうとする場面がありました。
 
 

愛の逃避行
 
「豊かだけども危険な夢を追いかけている状態」より「貧しいけども夢に憧れを抱く状態」の方がもしかしたら幸せなのかもしれません。どちらも夢に向かって進んでいるようで、後者は夢から離れて(=諦めて)います。
 
デンジには「生きる」か「死ぬ」かという二択がマキマから与えられていました。
現実では「田舎のネズミ」か「都会のネズミ」か、という選択肢があたえられるのではないでしょうか。
 
ではこの二択を前にした、われわれは一体どうしたらよいのでしょう。
 
わたしの結論は「自分で考えること」です。自分がなりたいのは都会のネズミなのか田舎のネズミなのか。夢や欲望は何なのか。
 
それらをきちんと整理しておかないと、マキマのような人に都合よく使われてしまいます。あなたの夢を他人に利用されないよう、しっかり自分でやること、やらないことを決めておきましょう。
 
 

この場面でドキッとしたのはわたしだけではないはず
 
アキもデンジも思考停止になりマキマの言う事が正しい、マキマが導いてくれると思ったせいで色々なものを失います。 
 
夢や欲望。それらへ向かって努力することが正しいとはいいません。夢を諦めて田舎のネズミになるのも立派な作戦だと思います。もしマキマから逃げられるなら逃げた方がデンジは幸せだったかもしれません。
 
先程書いた通り、逃げてもいいからしっかり自分で考えること。やること、やらないこと、大事なもの、不要なもの…をリストアップしておきましょう。
 
夢に向かって努力している途中や、平和な日々を送る途中で、かけがえのないものを見つけるかもしれません。そうしたらそれを大事にすること。夢に届かなくてもそれで十分幸せになれるのです。
 
こうきくと簡単なようにきこえるかもしれませんね。しかし少なくともデンジは出来ませんでした。
 
あらかじめ、考えておかないと何が大事かわからないということだと思います。しっかり考え抜きましょう。わたしもまだ考えている途中です。人生とは何が幸せなのかを考えることなのかもしれません。
以上がわたしがチェンソーマンを読んで考えた幸せの真理です。必ずしもその夢や欲望の達成は必要ないと考えています。
 
 
 
幸せって人それぞれ。
 
 
 
 
そんなどこかで聞いたことあるようなフレーズで終わりたいと思います。
 
 
ここまで読んでいただきありがとうございました。
よければ映画のレビューや他の記事も書いてますので見てやってください。
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どうぞ末永くよろしくお願いします。
 
 
 
 
 
 
 
 

おまけ

ここまで読んてくれた方におまけです。
チェンソーマン第二部が始まりましたのでその感想を少しと小ネタをどうぞ。
 
おまけ①
デンジは第一部と違い、今度は生理的欲求ではなく、尊厳欲求(承認欲求)で行動しているのがおもしろいと感じました。
もしかしたら、生理的欲求がその根っこにあるかもしれませんが笑
 
おまけ②
そして、ナユタ(かつてのマキマ)がデンジの言うことをきいているというのもまたおもしろいです。第一部とは立場が逆転していますからね。
どうしてマキマがポチタを欲しがったのか、チェンソーマンはなぜ支配の悪魔(マキマ)を食べなかったのか、こういったチェンソーマンの真の謎がここにあるんじゃないかとわたしは今のところ考えています。
 
おまけ③(おまけの本編)
ほんとは別に記事にしようかと思いましたがここで書いちゃいます。
わたしの考えですが、デンジとパワーはヤッてます。
誰も書いてない考察すぎてびっくりするでしょうが、理由もちゃんとあります。
 
 
 
 
ステーキとか食べたいんです!!ってデンジが泣きながら訴えて、周りがドン引きするシーンがありました。

これね笑
この続きはこんな感じでした。
 

 
 
こういうギャグシーンかと思って初めて読んだときは読み飛ばしましたが、2回目に読んだとき、おかしいなと思いました。
このブログ読んだ方はわかってくれると信じて書きますね。
 
 
 
デンジはキスしたい、おっぱいもみたい……と順々に男の子の欲望を叶えていきました。
 
ということは次の目標は「セックスをしてみたい」になるはずです。
おかしいですよね。
それをまるで朝ごはんに、トーストにジャムをぬって食べるのと同じように表現しています。
 
 
 
これってつまり、セックスが当たり前になっている、もっと言えば飽きているということだと思いませんか。
 
あと、問題のシーンです。
第71話でデンジとパワーがお風呂に入って、デンジがパワーの血を吸うシーンがありました。

このシーンに触れない訳にはいかない笑
普通に読むと、「まるでセックスしているように血を吸ってるだけ」というシュールなシーンです。それだけでも十分面白いのですが…。
 
 
わたしの考えを知ってくれた方にはこれは「「まるでセックスしているように血を吸ってるだけ」というシュールなシーンに見せかけたセックスシーン」に見えるはずです。
 
 
 
藤本タツキはこれをわざとやっているのではないでしょうか。天才すぎる。
 
これは不適切では?と言われても「いや、そういうつもりはなくて。血を吸ってるだけなんで。」と切り返せるし。色々な意味で天才。
 
 
 
パワーはデンジに「バディだから」という理由で一緒に行動します。が、その理由は好意とか愛なんじゃないかとわたしは思います。
というか、バディとか友達という言葉をパワーは間違って使っていると考えています。わたしたちの感覚で言う、恋人とか好きな人、みたいな。
 

 
 
 
 
最終盤でパワーはデンジを助けたりするのもそういう愛が原動力なんじゃないかと思ってます。
 

 
 
ダンブルドア校長先生なら「愛じゃよ」と言ってくれそう
 

 
 

 
それを「愛の力」と全面に押し出したセリフにしないのがスマートでかっこいい作品だなと思います。よく映画とかである王道のオチ(最後に愛が勝つ)なのに見せ方が違うからおもしろいです。映画好きな藤本タツキらしいのではないでしょうか。
 

二人を繋ぐのは、友情ではなく愛と考えた方がしっくりくるセリフ
 
 
これも記事にしようと温めてたネタだったのですが、ボリューム少なかったのでおまけで紹介しちゃいました。でも、書いてみたら意外と長くなってびっくりしてます笑
 
 
 
はい、ほんとにこれで終わりです笑
最後の最後までありがとうございました。
 
繰り返しになりますが
おもしろかったという方、星、コメント、noteの方のフォロー、是非してください!!
これからもおもしろい記事書くんで!!
 
では、また!